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ベロニク・ブルネ、別名レタン

1772 - (スール・サント・ローズ)

1726年1月13日ポワント・クレールで生まれ1810年6月12日モントリオールで死去。1744年修練院に入る。2年後に修道誓願宣立。ケベック市周辺の宣教に派遣される。1771年副修道院長としてモントリオールに戻り、一年後に修道院長になる。コングレガシオンは、イギリスによるケベック征服の影響と1768年の火災での建物崩壊のため、財政困難に直面していた。スール・ブルネは収入を得るために、洗濯や刺繍の仕事をするシスターの人数を増やした。1778年に6年の任期を終えた後、修練長に選ばれ、1784年まで在任。同年修道院長に再選される。この頃になると社会的経済的状況は以前よりも安定した。…

マリー・レゼンヌ

1778 - (スール・サンティニャス)

1735年7月14日ケベック州オカのラック・デ・ドゥ・モンターニュに生まれ、1811年4月20日モントリオールで死去。両親は米国マサチューセッツ州ディアフィールドで生まれた。両親はスペイン継承戦争中に先住民に捕縛され、カナダのソー・ト・レコレに連れてこられ、そこで受洗する。両親は各々コングレガシオン・ド・ノートルダムとスルピス会が運営する学校で学ぶ。戦争終了後ニューイングランドに戻らずに1715年7月29日に結婚。子供のうち3人が神に生涯を奉献する。その一人マリーは1752年コングレガシオンの修練院に入り、1754年誓願宣立。モントリオールで7年戦争を経験する。…

マリー・ルイーズ・コンパン

1796 - (スール・サントギュスタン)

1747年1月28日モントリオールで生まれ、1819年5月2日同地で死去。コングレガシオン・ド・ノートルダムの母院の近くのサン・ジャン・バティスト通りで育つ。コングレガシオンの小学校で学ぶ。1764年コングレガシオンの修練院に入り、2年後誓願宣立。1788年まで幾つかの学校で教える。母院の修練長を1年間務める。その後副修道院長に任命され1796年まで在任。同年修道院長に選ばれる。修道院長として6年の任期終了後異例的に修道院長に再選され1808年まで在任。1814年にも修道院長に選ばれる。フランス革命のためフランスからの年金中断による収入減や入会者の減少など、…

マリー・マドレーヌ・デルセル

1808 - (スール・ド・ラ・ナティヴィテ)

1758年6月11日オルレアン島のサン・フランソワで生まれ1822年4月12日モントリオールで死去。1775年コングレガシオンの修練院に入る。1777年誓願宣立。1787年ブッシェルヴィルのサン・フランソワ・ドュ・シュドに、1793年母院の寄宿学校に、1797年にケベック市の下町に派遣される。1802年修練長に任命される。その後修道院長になり2期を務める。1期終了後は総顧問会の幾つかの任務を歴任。1819年に再び修道院長になり1822年に亡くなるまで在任した。

マリー・ヴィクトワール・ボードリー

1822 - (スール・ ド・ラ・クロワ)

1782年12月12日ポワント・トランブル(モントリオール)で生まれ、1846年11月10日に死去。コングレガシオン・ド・ノートルダムの学校で学び、16才でコングレガシオンの修練院に入る。1801年誓願宣立。健康問題を抱えながらもいろいろな学校で教える。1818年から1822年まで修練長。1822年修道院長に選出される。1828年から顧問を務める。引退後は会の養護所で過ごした。

マリー・カトリーヌ・ユオ

1828 - (スール・サント・マドレーヌ)

1791年4月30日ランジュ・ガルディアンで生まれ、1869年7月7日モントリオールで死去。オルレアン島のサント・ファミーユのコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターのもとで学んだ母親から教育を受ける。1809年誓願宣立。ケベックのいろいろな学校で教える。モントリオールに戻り、修道院長を3期務める。スール・ユオの監督の下でコングレガシオン・ド・ノートルダムは大規模な会員募集活動と会の拡大を行った。ケベック、オンタリオ州、カナダ沿海州、米国に多数のミッションが設立された。この当時からコングレガシオン・ド・ノートルダムは英語での授業を始めた。教育プログラムの中にも新しい科目が加えられた…

マリー・フランソワーズ・ユオ

1840 - (スール・サント・ゲルトルード)

1795年10月10日ランジュ・ガルディアンで生まれ、1850年11月8日モントリオールで死去。故郷のコングレガシオン・ド・ノートルダムの寄宿学校で学ぶ。1815年モントリオールの修練院に入り、2年後誓願宣立。ケベックのいろいろな学校で教える。1839年ケベック市の下町の支部院の副支部院長に選ばれケベックに戻る。翌年修道院長に選ばれモントリオールに移る。任期中にキングストンに支部が設立される。1843年病気のため任期途中で止む無く退任、3年間の在任であった。1848年まで副修道院長を務め、同年修道会のインファーマリー(療養所)に入った。

マリー・ルイーズ・ドルヴァル

1849 - (スール・サンテリザベト)

1794年7月7日ケベック市対岸のオルレアン島のサント・ファミーユで生まれ、1866年8月1日モントリオールで死去。両親の死後、1815年にコングレガシオンの修練院に入る。2年後に誓願宣立。修道生活の最初の14年間、ケベックの幾つかの学校で教える。1831年から1837年までモントリオールで修練長を務める。その後、多くの支部で支部院長を務める。1848年コングレガシオンの副修道院長になる。1849年修道院長就任。任期6年。任期終了後、1857年に4人のシスターと共にカナダ東部沿海州に行き、ノバスコシア州アリチャットに同州で最初の宣教支部を設立する。モントリオールに戻り引退。…

マリー・ソフィー・ミニョー

1861 - (スール・サン・ベルナール)

1812年10月5日サン・ドニで生まれ1890年12月28日死去。1833年誓願宣立。その後教職を務める。1850年修練長に任命され1857年まで在任。同年支部副修道院長になる。1861年修道院長に選出され2期を務める。

メアリー・アン・ギブソン

1864 - (シスター・サント・ユルスル)

1809年6月14日ケベックで生まれ、1897年11月27日モントリオールで死去。スコットランド系のギブソン家に生まれる。一家はケベック市の下町にあったコングレガシオン・ド・ノートルダムの修道院の近くに住んでいた。両親の死後、姉妹と共に、コングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターに預けられる。1820年受洗。1827年誓願宣立。フランス語と英語を教える。モントリオールの母院の寄宿学校で27年間、アソンプシヨンの支部で12年間を過ごす。その後モントリオールに戻り1864年から1870年まで修道院長を務めた。本会最初の英語系修道院長。

マリー・テオティスト・オーレリ・シェニエ

1870 - (スール・サン・ヴィクトール)

1828年7月31日ロングーユで生まれ1890年に死去。1846年誓願宣立。1870年修道院長に選出される。6年の任期を継続して2期務める。在任中の主な出来事として、5番目の母院の建設(山上の母院として知られる、1870年)、慣習法の改訂と発行(1876年)、マルグリット・ブールジョワの列副申請をローマに提出した(1878年)ことが挙げられる。

マリー・ソフィー・ルイーズ・デュビュック

1885 - (スール・サン・ジャン・ド・ラ・クロワ)

1826 年8月24日モントリオールで生まれ1908年10月14日同地で死去。子供の時にコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターが運営するモントリオールのアカデミー・ド・ラ・ヴィジタシオンで学ぶ。父親が1837年の反乱に関わりその後ボストンに逃れたため、ボストンで英語を学ぶ。その後モントリオールに戻り1849年に修練院に入る。2年後に誓願宣立。ケベックの様々な学校で教える。1857年コングレガシオン・ド・ノートルダムの修道院を沿海州に作るために、ノバスコシア州のアリチャットに派遣される。1859年モントリオールに戻り、コングレガシオンの管理職を歴任。幾つかの支部の支部院長、顧問、…

マリー・アデライド・ペルシャ

1891 - (スール・サン・ジャン・バティスト)

1832年1月25日ケベックで生まれ1913年4月23日死去。ウルスラ会、およびコングレガシオンのサン・ロッシュ寄宿学校で学ぶ。1851年コングレガシオンの修練院に入る。教職、幾つかの支部で支部院長、幾つかの管理職を経て、1891年修道院長になる。任期6年。任期中の1893年山上の母院が焼失したため、複雑な問題に対処しなければならなかった。1909年、51年間務めた管理職を退く。

フィロメーヌ・ルジュー

1897 - (スール・サント・サビンヌ)

1837年10月13日ケベック州ヤマシッシュで生まれ1913年10月28日死去。10人の子供を持つ家庭に育つ。コングレガシオンの学校で学び、数年後の1858年にモントリオールの修練院に入る。1860年誓願宣立。サン・ユスタッシュで教え、その後ケベックの幾つかの学校で教鞭を取る。1877年志願院長になる。1880年から1885年、1891年から1897年まで教育関係の総責任者を務める。1897年に修道院長になる。

マリー・ピュルシェリ・コルミエ

1903 - (スール・サンタナクレ)

1848年5月22日ケベック州コントルクールで生まれ1912年11月19日モントリオールで死去。3人の姉妹と共にサン・ドニのコングレガシオン・ド・ノートルダムの寄宿学校で学ぶ。1870年誓願宣立。サンタンヌ・ド・ヤマシッシュで5年間教え、モントリオールのヴィラ・マリア寄宿学校で教える。1891年副修道院長に任命され、その後、教育関係の総責任者になる。1903年から1912年まで修道院長在任。任期中にシェルブルック通り3040番地に母院を建設する仕事を監督した。

マリー・タイ・ショケット

1913 - (スール・サント・マリー・ジョゼフィーヌ)

1842年1月15日ケベック州ヴァレンヌで生まれ1932年6月6日死去。田舎の学校で学び、その後ブッシェルヴィルのコングレガシオン・ド・ノートルダムの学校で3年間、ラ・プレリーのコングレガシオンの学校で1年間学ぶ。修練院に入り1860年誓願宣立。23年間教職を務める。その後、副修道院長や幾つかの支部院長を歴任。1895年に総顧問になり1913年まで在任。同年に修道院長に選出される。健康上の理由により1917年辞任。

マリー・ルイーズ・レオンティン・マルサン・ラピエール、別名ゴーティエ

1917 - (スール・ サント・ユフロシーヌ)

1853年8月20日モントリオールで生まれ1935年7月26日同地で死去。自宅近くのアカデミー・ヴィジタシオンで学ぶ。非常に才能豊かな生徒だった。その後アカデミー・サン・ドニで学ぶ。14歳でヴィラ・マリアのクール・グラデュエに入学を許される。1年後に名誉の十字架賞(クロワ・ドヌール)と修了証書を授与される。卒業後自宅に戻り8年間大家族の面倒をみる。その後修練院に入り、1874年誓願宣立。ケベック市周辺の学校で教え始める。9年後にコングレガシオン・ド・ノートルダムの管理職を任され、修練長補佐・支部院長・教育関係総責任者・修練長を歴任。…

ローズ・アナ・アルビナ・フィロメーヌ・ルジュー

1923 - (スール・サント・マリー・ローズ)

1861年7月3日ケベック州ヤマシッシュで生まれ1925年…

マリー・サラ・パラディ

1925 - (スール・サント・マリー・デュ・セナクル)

1864年4月12日ケベック州サント・マリー・ド・ボースで生まれ1938年3月28日モントリオールで死去。コングレガシオン・ド・ノートルダムの寄宿学校で学ぶ。1882年修練院に入る。1884年誓願宣立。最初の任務としてケベック市に派遣され1年間学校で教えた。その後31年間米国イリノイ州ブルボネに派遣され、支部院長を16年間務めた。1916年サン・フランソワ・デュ・シュドの支部院長に任命される。1922年母院の院長になる。1923年副修道院長に任命され、1925年修道院長になる。6年間の任期中に師範学校が開校。修道院長としての任期終了後はケベック州サン・ソヴールの支部院長、…

マリー・アンヌ・ロサルダ・ドラゴン

1932 - (スール・サン・ヴァレリアン)

1869年12月13日ケベック州サン・ドニ・シュル・リシュリューで生まれ1957年1月23日モントリオールで死去。1881年からコングレガシオン・ド・ノートルダムの寄宿学校で学ぶ。1888年修練院に入る。1891年誓願宣立。ベルティエの学校とモントリオールの幾つかの学校で教鞭をとる。母院での様々な任務を任される。1914年から1928年まで幾つかの支部で支部院長を務める。1932年修道院長になる。任期中に日本に支部修道院が設立された。それは非キリスト教国でのコングレガシオン最初の支部の誕生であった。任期中に腸チフス蔓延のため15人の修練者が亡くなった。任期終了後は幾つかの管理職務を歴任…

マリー・アンヌ・ユフェミー・トリュドー

1938 - (スール・サン・テレーナ)

1875年8月20日ケベック州ジョリエットに生まれ1956年5月17日モントリオールで死去。ジョリエットのコングレガシオン・ド・ノートルダムの学校で学ぶ。学校を修了時、幾つかの賞を受賞した。1892年志願院に入る。1895年誓願宣立。主にモントリオールで教える。1923年シェルブルックに在る支部修道院の学監に任命される。1926年モン・サント・マリー・ド・モンレアルの支部院長に任命され、その後、再び学監になる。1932年副修道院長に、1938年修道院長に選出される。病気のため1940年に退任。健康回復後、幾つかの活動に従事。1956年に亡くなるまで、ド・ラ・コット・サン・…

レア・マンドヴィル

1940 - (スール・サン・イニャス)

1885年9月5日ケベック州ソレルで生まれ1977年8月22日死去。ソレルのコングレガシオン・ド・ノートルダムの学校で学ぶ。1907年修練院に入る。1909年5月4日誓願宣立。デ・セードルの支部修道院で教え始める。1924年支部院長に任命され、その後管区長になる。1938年副修道院長に、1940年修道院長に選出される。任期中に多くの学校が開校されたが、新しい学校への要請は、それに対応出来るシスターの人数を超えていた。任期中の1950年にマルグリット・ブールジョワが列副された。1952年任期終了。その後1963年までいろいろな管理職を歴任した。

ジャンヌ・ブリュレ

1952 - (スール・サント・マリー・コンソラトリス)

1900年12月23日ケベック州シェルブルックで生まれ1966年7月14日モントリオールで死去。8才まで自宅で学ぶ。その後アカデミー・サント・マリーとモン・ノートルダム寄宿学校で学ぶ。学校を終了すると家族の元に戻り三年間を過ごす。その後コングレガシオン・ド・ノートルダムに入会を求める。1923年誓願宣立。ヴィクトリアヴィルで教職に就く。その後その他の学校でも教える。1941年ラヴァル大学の姉妹校であるサン・パスカルの家政学校の校長に任命される。1947年同校のケベック市への移転に伴い、支部院長になる。その後管区長に選出される。選挙による初めての管区長である。1952…

ガブリエル・マシコット

1964 - (スール・サン・テレーヌ・デュ・サクレクール)

1913年10月27日ケベック州ヌヴィルで生まれ1990年6月30日モントリオールで死去。1920年から姉と共にアカデミー・サン・ポールで、続いてコレージュ・マルグリット・ブールジョワで学ぶ。その後1936年に修練院に入る。1938年誓願宣立。最初の任務はケベックのコレージュ・ノートルダム・ド・ベルヴューで、この学校で11年間教えた。その後管理職を歴任し、修練長、ジュニオラ(若者養成校)の責任者、支部院長、副修道院長、総書記長を経て、1964年に修道院長に選出される。任期中の6年間は、ケベック州の教会が様々なチャレンジに遭遇した時期である。レボリューション・トランキル(静かな革命)…

マルグリット・ウレット

1970 - (スール・サント・マルグリット・デ・ヴェルテュ)

1912年7月12日モントリオールで生まれ1995年7月12日同地で死去。サン・ジャン・シュル・リシュリューのコングレガシオンの学校で学ぶ。1932年8月26日志願院に入るが、健康上の理由により養成を一時中断する。1942年修練院に戻り1943年誓願宣立。教員として25年間のキャリアのうち、21年間は大学で教鞭をとった。最後の12年間は幾つかの家政学校の管理職を任された。そのうち一校、オタワ大学の姉妹校である家政学校を創立したのはスール・ウレットであり、1956年から同校の管理職を務めた。1970年修道院長に選出される。任期中は教育制度の大幅な改革があった時期にあたる。スール・…

ルイーズ・コテ

1974 - (スール・サント・マリー・クレール・デザンジュ)

ケベック州ウィンザー生まれ。故郷のノートルダムの学校とシェルブルックの師範学校で学ぶ。モントリオールの修練院に入る。1950年誓願宣立。教育学、文学、語学の学士号を持つ。本会の寄宿制の中学・高校で教える。コレージュ・マルグリット・ブールジョワで修辞学を教える。本会の様々な任務を組織化するためのリサーチに貢献した。1967年宣教のため数ヶ月間ホンデュラスに渡る。1970年総顧問と総財務局長に選出され、1974年修道院長になり1984年まで同職在任。在任中の1981年にマルグリット・ブールジョワの生誕地フランスのトロワに本会の支部が設立された。1982年にマルグリット・…

マドレーヌ・ロシェット

1984 - (スール・サンテレーヌ・ド・ブラバン)

ケベック州サンオーギュスタン・ド・ポールヌフ生まれ。コングレガシオン・ド・ノートルダムの学校で学ぶ。高校を終える頃、観想生活に興味を持つようになるが、勉強の継続を奨励され1958年から1961年までサン・パスカルの師範学校で学ぶ。1960年ボポールの修練院に入る。その後教育学の勉強を続け、モントリオール大学の学士号と教師免許を取得。中学・高校で古典を教える。その後、教育学の勉強を深めるためにサン・パスカルの母校に戻る。後にモントリオールの師範学校で同じ分野で働くことになる。1969年教育修士号取得。翌年オタワ大学教育学部の教授となり、教えながら博士課程を続け、1975年博士号取得。…

ロレーヌ・カザ

1996 - (スール・サント・マリー・ド・ナザレ)

ケベック州サンジャン生まれ。サンジャンの寄宿学校とモントリオールのコレージュ・マルグリット・ブールジョワで学ぶ。1955年モントリオール大学で学士号取得。1958年誓願宣立。その後3つの学校で教える。コレージュ・レジナ・アサンタはその一つ。1962年から1964年まで米国インディアナ州のノートルダム大学で数学を学ぶ。1967年オタワのドミニカン・カレッジで哲学と神学の研究を始め、1972年修士号を取得し、1978年まで同校で教える。博士課程のため海外に渡る。イスラエルのエルサレム聖書・考古学研究所で2年間、スイスのフリブールで一年間を送る。…

ジョセフィン・バダリ

2006

オンタリオ州トロント生まれ。小学校から高校までコングレガシオン・ド・ノートルダムが運営する学校で学ぶ。モントリオールの修練院に入り1963年誓願宣立。その後オタワのジュニオラで学ぶ。トロントの神学校セント・マイケルズ・カレッジで神学を勉強しながらオンタリオ州とブリティッシュコロンビア州の学校で教える。1980年オンタリオ州キングストンのオテル・デュー病院のチャプレン(学校・病院・軍隊などで働く聖職者)になる。その後ブリティッシュコロンビア州の祈りの家の支部院長になり1989年まで司牧活動に携わる。オタワで副管区長を務め、1990年に副総長に選出され任期5年を務める。…

アグネス・キャンベル

2016 - (シスターセント・アン・カーメリタ)

ノヴァスコシア州ケープ・ブレトン島のシドニーで生まれる。小学校から高等学校までコングレガシオン・ド・ノートルダム(CND)の学校で教えを受け、CNDに入会したいと望んだ。アグネスの叔母二人はシスターであった。

 

シドニーのザビエル・ジュニア・カレッジで一年間学んだ後、1958年、シドニーを離れモントリオールのCNDの母院に向かい、1960年、誓願を立てた。同年、聖フランシスコ・ザビエル大学で教員免許資格を取得した。1961年から1996年の間、教師/学校管理者として、ケープ・ブレトン地域で働いた。1996年に教職を退き、…