1900年~1961年 - 古い境界線を越えて ― 惨事、そして、復興のとき

古い境界線を越えて ― 教師の教育

20世紀の前半、コングレガシオンは、既に教師でありながら、教師としての技能を一層向上し、更に高度の免状や学位を得ることを望む多くの若い修道女や一般人を積極的に後援しました。1916年にはモントリオール・カトリック教育委員会の一部融資を得て、土曜日ごとに一連の教育集会が母院で開かれました。翌年1917年、ラヴァル大学は、土曜講座よりなる三年制課程を認証し、学位課程への道が開かれました。300人近い教師がこの課程に登録し、1920年は70人の教師が二年でこの課程を修了し、免許状を受けました。1921年には、460人の教師がこの免許状を受け、89人が三年課程を修了し更に高度の免許状を授与されました。この成功に対応し、ケベック政府は、師範学校や高等師範学校に関する法律を制定しました。

その結果、1926年秋、マルグリット・ブールジョワ・カレッジのある新しい建物に、師範学校が開校されました。モントリオール大学の姉妹校であった同校は初等教育教員のための上級免状、教育学士号、教育修士号、教育博士号を授与しました。1926年、同教員養成校の一部として、音楽専門師範学校が開校されました。モントリオール大学の姉妹校であった同校は、音楽教授の免許状や、博士号をも含める学位を与えました。

カトリーヌ・クロロと「王の娘たち」、農場にて

カトリーヌ・クロロと「王の娘たち」、農場にて

Pointe Saint-Charles (Montreal), New France (Quebec), [between 1668 and 1673].

古い境界線を越えて ― ビジネス社会に備えて...そして家庭のための女性教育

1905年から1906年にかけて、ビジネス教育の必要性は急速に増加していたにもかかわらず、モントリオールには3つの商業学校しかありませんでした。働くことを望む若い女性の選択肢はほとんど工場に限られ、そこで女性たちは低賃金で酷使されました。このような状況を憂慮し、1907年、コングレガシオンはポワント・サンシャルルに最初の女子商業学校を開きました。母院の新しいカレッジのビジネス教育部門は、1909年に初めての入学生を受け入れ、成長し続けました。教科は、簿記、商法、銀行取引、商用通信、ペン習字、商業地理学、速記、タイプライター、索引作業、活版印刷、複写とガリ版印刷、書類ファイルなど多岐にわたりました。学校の評判は高まり、卒業生は難なく良い仕事を見つけることができ、モントリオールの企業は、優秀な社員の教育場所として「マザーハウス」に大きな期待を託しました。

同時に、コングレガシオンはその長い伝統である家庭教育をも忘れることはありませんでした。しかし、家庭教育もまた変遷し、ドメスティック・サイエンス(家政学)と呼ばれるようになりました。1905年、ケベック州カムラスカのサンパスカルに創立された家政学校は、1913年、家政学を教える師範学校となりました。1914年、母院の高等教育校に家政学部が導入されました。1926年には仏語系教員養成所に、1932年には文芸高等教育校に、家政学部が開設されました。コングレガシオンはまた、サンパスカル(1939年)、サントマリー・ド・ボース(1944年)、その他の農村の小さい学校でも家政教育に力を入れました。1941年、ラヴァル大学はサンパスカルに家政科を設置し、1947年、この学部はケベック市に移転しました。

ノヴァスコシア州のマウント・セントバーナード・カレッジで、コングレガシオンのシスターたちは、家政学科の学士号に導く4年制課程を準備し、1928年に聖フランシスコ・ザビエル大学により認可されました。その後、この課程は、カナダ栄養士会により公式認知を受け、栄養・食品学を専攻した学生が栄養学の大学院生となる道を開きました。この時以後、家政学課程の卒業生は、国内および国際的に、高等学校や大学、あるいは政府の研究機関で教師となることが可能となりました。

Graduates and undergraduates of Mont Sainte-Marie Convent

Graduates and undergraduates of Mont Sainte-Marie Convent

Montreal, Quebec, [1912 or 1913].

古い境界線を越えて ― 女性教育の振興

20世紀は、コングレガシオンにとりパリ・エクスポへの参加で始まりました。コングレガシオンのすべての学校で生徒は展示品作成に参加し、メダルと賞状を獲得しました。19世紀全体を通して、コングレガシオンは女子学生のためのカリキュラムを改善する努力を結集し、女性の進出が遅れている分野の教育のために男性の専門家を雇いました。20世紀には、英語系地域のシスターは高校教育に力を注ぐ一方、ケベック州では、1922年を始めとして、多くのコングレガシオンの学校で、「文学と科学」と題する4年プログラムが組まれました。このプログラムは、ラヴァル大学やモントリオール大学の認可をうけ、11年生(16歳前後)以上の生徒が大学に入る資格を獲得することを可能にしました。

当時、女性の大学教育は敵意と猜疑心を持って見られていましたが、20世紀初頭の10年間、コングレガシオンは非常な熱意を持って女性の大学教育権獲得のため献身しました。当時、ケベック州の伝統的なカトリック大学は女性に閉ざされており、既存の大学に女性を受け入れてもらうためのコングレガシオンの最初の試みは失敗に終わりました。しかし、1908年、コングレガシオンは、ラヴァル大学の講座を教え、同等のテストや学位を与える新しい学校を開く許可を受けました。ノートルダム・レディーズ・カレッジと呼ばれたこの学校は、同年10月、モントリオールのシャーブルック西通りに新しく建てられた母院にその門戸を開きました。フランス語と英語で教えるこの学校には、文系、理系、商業系の3部門がありました。1911年、ノートルダム・レディーズ・カレッジ最初の卒業生の成績は、同年に他のケベックの大学を修了した学生に優る最高の成績でした。しかし、最優秀の生徒に与えられるコリン賞は、彼女ではなく、2番目の成績の男性生徒に授与されました。

学校は目覚しく成長し、母院の建物だけでは足りなくなり、1926年、ウェストマウント・アベニューの新しい建物に移転し、新たに、マルグリット・ブールジョワ・カレッジと命名されました。1944年、同校の英語系部門は分離してマリアノポリス・カレッジが誕生し、商業教育部門はノートルダム秘書専門学校として母院に残りました。この時期、コングレガシオンは女性のため他所にもカレッジを設立しました。ニューヨーク州スタテン・アイランドのノートルダム・カレッジ(1931年)、オタワのノートルダム・カレッジ(1932年)がその例です。

師範学校の学生の記念写真

師範学校の学生の記念写真

Montreal, Quebec, [ca. 1920].

古い境界線を越えて ― 日出づる国へ向かって

1932年5月、コングレガシオンは画期的な決定を行いました。それは、日本の福島にミッションを開く招待を承諾したことです。その年の秋、聖フランシスコ・ザビエルが「私の心の喜び」と呼んだ人々の中に住み、働くため、5人のシスターが日本に向かいました。16世紀から17世紀にかけてのザビエルや他のカトリック宣教師の仕事は日本人キリスト教徒により密かに保存されてきました。彼らは、迫害の中で、司祭や秘蹟(洗礼を除いて)の欠如にもかかわらず、信仰を世代から世代へと伝えました。しかしながら、彼らは極めて少数でした。

モントリオールに到着したマルグリット・ブールジョワと同様、シスターたちは即座に学校を開くことはできなかったため、少なくとも始めは、他の宣教方法を探さざるをえませんでした。マルグリット・ブールジョワのように、シスターたちは現地の婦人たちと密接な関係を保って働きました。政府は外国人シスターたちの計画に許可を与えることを渋りましたが、1936年には福島に診療所を、1938年には幼稚園を開く許可が下りました。彼女たちはまた、八戸と福島で、公教要理を教え、英語、フランス語、音楽の個人教授をしました。この間更に、カナダからシスターたちが到着し、日本人女性が修練院に入会し始めました。この修練院はモントリオール以外で開かれた初めての修練院です。そして1941年12月、太平洋戦争が勃発したのです。

これに続く数年はシスターたちにとり至難なときでした。建物は閉鎖され、幾人かのシスターは捕虜交換としてカナダに送還され、また幾人かは拘禁され、福島の修道院は民間人捕虜の収容施設として使われました。戦時中の多くの日本人と同様、シスターたちは飢え、寒さ、恐怖に曝されました。彼女たちが生き延びることができたのは、主として、3人の日本人修練者の忠誠と世話のおかげでした。

戦後の日本ではコングレガシオンの仕事は大きな実を結びました。1946年、19人の戦争孤児の受け入れをきっかけとして、福島に小学校を開校しました。校舎は捨てられた家畜小屋ではなく、プレハブ建築で、「桜の聖母学院」と名づけられました。1949年、福島に桜の聖母学院中学校を開校し、また同年、コングレガシオンは日本の南にある戸畑市の明治学園の経営責任を引き受けました。1952年、福島に桜の聖母学院高等学校を、1955年に桜の聖母短期大学を開校しました。1956年までには、33人の日本人シスターが18人の北米シスターと共に働き、10人の志願者がいました。学校の生徒数は1707人で、そのうち153人がカトリック信者でした。

シスター・マリア・ジェルマーナ(穴沢政子)と茶道を楽しむ生徒たち、北九州市の学校で

シスター・マリア・ジェルマーナ(穴沢政子)と茶道を楽しむ生徒たち、北九州市の学校で

戸畑、日本, 1951.

古い境界線を越えて ― 惨事、そして、復興のとき

20世紀の前半、世界は最悪な事態に見舞われました。2つの世界大戦のため何百万人という人々の命が失われ、2つの戦争の間は経済恐慌のため数百万人が貧困に陥りました。第二次大戦後は、大量破壊兵器が発明され、何十年もの間、欧米諸国と共産圏との間の冷戦という世界緊張が続きました。しかし、この苦しみの中にも、良い出来事がありました。英国からの独立の道を歩んでいたカナダは、第一次大戦後の1931年、実質的な独立を果たし、英連邦の一員となりました。他の朗報は、女性に議会での選挙権が与えられ始めたことです。しかし、ケベック州では女性の選挙権は1940年まで認められませんでした。戦争中、多くの女性が労働に参加し、これに伴い、高度の教育を必要とする部門や政府機関でのポストに女性のための門戸が開かれました。

第二次大戦に続く経済的繁盛期、カナダでは、英国や他のヨーロッパ諸国(特にイタリア)からの移民の流入により、再び人口増加が見られました。加えて、西欧諸国と同様、すでにカナダに住んでいる家族の出生率が上昇したことも、カナダ人口の増加の一因です。この世代は「ベビーブーマー」と呼ばれています。

欧米諸国で、希望、楽観主義、期待感が最高潮に達したこの時期、ケベック州では大学構内で動揺が見られ始め、「静かな革命」の発端となりました。この時期はまた、教皇ヨハネ二十三世により第二バチカン公会議が招集されたときでもありました。

Sister Saint-Alfred (Délia Clément) during the Spanish Flu pandemic

Sister Saint-Alfred (Délia Clément) during the Spanish Flu pandemic

[Montreal, Quebec], 1918.

古い境界線を越えて ― 卒業生と連絡を保つ

コングレガシオン初期の小さな世界では、シスターたちは簡単に学校の卒業生と連絡を保つことができました。シスターたちは単に非公式に会うだけではなく、年長の学生や女性たちと定期的に日曜毎に会合しました。その後数年にわたって、このグループは勝利の聖母修道会やウーヴル・デ・タベルナクル(祭壇奉仕会)のような組織を結成するに至りました。

19世紀の第1四半期には、コングレガシオンの同窓会グループがその母校に付属するようになりました。たとえば、ブルボネ(イリノイ州)、カンカキー(イリノイ州)、ニューヨーク、スタテン・アイランド、サンルイ・ド・ケント(ニューブランズウィック州)、オタワ、シャーブルック、サントテレーズ、モントリオールでは、セントキャサリン寄宿校、ヴィラ・マリア、ジャック・カルチエ師範学校等の学校の卒業生グループがその例です。1929年には、カトリック修道会の学校の同窓会連盟が、教皇の祝福のもと、カナダの司祭たちの賛同を得て、カナダに結成されました。コングレガシオンの学校の同窓会連盟である「友愛会」は、共通名「ノートルダム」に各同窓会を識別する名称を付け加えた名で呼ばれました。これらの同窓会は共通の会憲と会則により運営され、昇天祭前の土曜日に母院で開催された会議に毎年代表を送りました。

これらの同窓会連盟は、勉強サークルを結成したり、社交行事を計画したり、あるいは、その人的・経済的資源を慈善やカトリック行事のために使ったりしました。1935年、カトリック修道会連盟は各地の教区からの意見を取り入れて、修道会友愛会教区連盟(FDAC)となりました。

ノートルダム・デ・セール・クラブでの最初の会議

ノートルダム・デ・セール・クラブでの最初の会議

Les Cèdres, Quebec, 19 October 1929.