1720年、サン・ヴァリエ司教は修道院長のマルグリット・ル・モワンヌ(スール・サン・エスプリ)に言いました。「大祝日にシスターたちが楽器に合わせて聖歌を歌うのには反対しません。」この楽譜はモントリオール神学校の教授であったジャン・ジラール神父(1696年~1765年)の楽譜の複製であると思われます。この賛美歌のコレクションはコングレガシオンのシスターが使用したものです。

ジェフリー・アマーストは1717年1月29日にイギリスのケント州セブノークスのリヴァーヘッド村で生まれました。1758年にイギリス軍によるルイブール第2包囲戦を指揮し、ルイブールを陥落させました。更に英国軍のジェームズ・ウルフ将軍に軍隊を送り、セントローレンス湾のフランス入植地を破壊しました。その後間もなく、北米英国軍総司令官となったアマーストはカナダ侵略を謀り、1760年9月8日に3部隊を率いてモントリオールを占領し、北米におけるフランスの支配は終りました。ヨーロッパでの戦争が続く中、アマーストはカナダの軍政府長官として植民地で多くの任務を果たしました。1763年11月英国に帰国し、1797年8月3日に故郷で亡くなりました。

ポール・ド・ショムデイ・ド・メゾンヌーヴは1612年2月15日、フランスのヌーヴィル・ヴァンヌで生まれました。有閑階級の軍人であり、パリのノートルダム・ド・モンレアル協会の一員であったド・メゾンヌーヴは、1642年にヴィル・マリーを築き、モントリオール島の最初の総督になりました。ド・メゾンヌーヴは、トロワ(フランス)のノートルダム修道会の外部コングレガシオンの指導者だった姉のルイーズ・ド・ショムディの勧めにより、新開地の子供たちの教師としてマルグリット・ブールジョワを選びました。ド・メゾンヌーヴはヴィル・マリーの最初の教師となったマルグリット・ブールジョワと彼女の共同体、コングレガシオン・ド・ノートルダムへの支援を惜しみませんでした。ド・メゾンヌーヴは1665年フランスに召還され、パリで引退生活を送り、1676年に亡くなりました。

英国との紛争のさなか、モントリオールの開拓者はしばしば敵軍の緊急攻撃に脅かされました。1709年夏、ニコルソン将軍が率いる英海軍がシャンプレーン湖に錨を下ろしたとの噂が流れました。コングレガシオンの聖堂の小部屋で隠遁生活を送っていたジャンヌ・ル・ベールは、コングレガシオンの農場の保護を願う祈りを聖母マリアの聖画に書きました。この聖画はポワント・サン・シャルルの農場の納屋の戸に貼られました。他の数人の開拓者たちが同様に、自宅を護るために隠遁者ジャンヌ・ル・ベールに祈りを書いてくれるよう頼みましたが、断られました。そこで彼らは農場の聖画の祈りを複製しました。ジャンヌはシスターたちのために二枚目の聖画を作りました。これは今でも残っています。

荘園制度とは、北米の英・仏政権下で1854年まで続いた一種の土地所有・分配制度です。当時、サン・スルピス会はモントリオールに多くの荘園を所有しており、コングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターたちは1663年まで、サン・スルピス会の荘園で働いた農民や小作人と同様の権利と義務を持っていました。シスターたちは土地を耕す権利と引き換えに現金または農作物をサン・スルピス会に納めました。