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La cuisine raisonnée - Nouvelle édition abrégée

2008 - Montreal, Fides, 411 pages - Collective work - Food preparation

Book title in English : "Culinary Art and Recipes

修道院長と総長

修道院長と総長

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会の修道院長(現在は総長と呼ばれている)は現在にいたるまで42人を数えます。総長として2期務めたシスターもいます。総長はコングレガシオン全体の統括者以上の存在です。時代を通してその役割は成長を続け、とりわけマルグリット・ブールジョワが創立した本修道会の存在目的と使命を護る上で重要な役割を担っています。

教育を通し社会に貢献するという使命を果たすために、総長たちはコングレガシオンが最適な判断をするように強い意思をもって導いてきました。…

学校の写真集

学校の写真集 (英語)

過去350年を通じて、コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会は数百校にもおよぶ学校を経営・運営し、本会のシスターたちは小教区の学校、他の修道会経営や教育委員会が運営する学校でも教えてきました。本ページ左欄をクリックしてください。コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会が運営する学校のリストがご覧いただけます。学校名、学校の種類(寄宿学校、普通校、専門学校、その他)、教育水準、所在地などは歴史を通じて変遷しています。私たちはこれらの学校の情報を追求し、…

何世紀にもわたる歴史

何世紀にもわたる歴史

コングレガシオン・ド・ノートルダムはその起源をモントリオールの創生期に遡り、現在なお積極的に教育活動を続けています。このような組織は数多くはありません。本サイトはコングレガシオンの変遷の要約であり、ニューフランス(ヌーヴェルフランス)の頃から現在までの5世紀の間、五大陸にわたって、コングレガシオンが成し遂げた事業や直面したチャレンジ、およびその時代の背景を、イラストや写真を用いて再現します。

「350年の歴史」はシスターパトリシア・シンプソンCNDにより書かれました…

学校の教科書

学校の教科書

コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会は同様な教育活動を行うケベックの女子修道会と比較してはるかに多くの教育書を発行しています。約440冊にわたる本がコングレガシオンの名のもとに発行されています。その中には教科書もあれば教師のためのマニュアルもあります。これらの本の多くは何回も印刷されあるいは再編集されています。これらの教材から時代時代の教育法、教育制度、社会の変遷、とくに価値観がいかに変わってきたかがお分かりいただけます。

コングレガシオン・ド・…

アーカイブギャラリー

アーカイブギャラリー (英語)

このセクションでは、バーチャル展示(仮想展示)から成るすべてのデジタルアーカイブ資料へのアクセスを提供いたします。検索フィルターと検索基準のサポートにより、公文書局が保存してきた原稿、写真、学校の教科書、映画、建築図面、その他多くの記録を閲覧することができます。膨大な量の記録は、様々な地域での、何世紀にもわたるコングレガシオン・ド・ノートルダムの比類ない教育活動の歴史を映し出しています。

教育活動

Pedagogical section(英語)

This virtual exposition and its pedagogical section recount and illustrate the exceptional history of the Congrégation de Notre-Dame founded by Marguerite Bourgeoys. Pedagogical section is an education program specially dedicated to adolescents…

ニューワールドの基盤となった比類のない入植地

ヴィル・マリー(後のモントリオール)は、当時、小さな入植地にすぎませんでした。ヴィル・マリーが建設された主な理由はニューフランスの先住民にキリスト教の信仰を伝えることにありました。1611年、現在カナダである地にイエズス会による宣教活動が開始されました。イエズス会の活動報告は時を移さずフランスに広まり、特に、イエズス会で学んだ人々の関心を呼び起こしました。その一人として、ジェローム・ル・ロワイエ・ド・ラ・ドーヴェルシエールが挙げられます。カトリック信者・夫・父親であった彼は、すでに自分の故郷ラ・フレッシュに看護修道女会を創立していました。また、小教区の在俗司祭であった若いジャン・…

恵みに触れる

マルグリット・ブールジョワは、後年常に、自分の生活を永久に変えた出来事とモントリオールの建設を関連付けています。マルグリットは1620年に、フランス、シャンパーニュ州の首都であるトロワで生まれました。父親は自分の店をもつ熟練した蝋燭製造者であり、またトロワ造幣局にも所属していました。母方の家族は織物業に従事していました。彼女が生まれた階級の女性の常として、マルグリットは家業に関係する手仕事のみならず、読み書き、会計、予算などの商業技術を習得しました。マルグリットは知性と、陽気で魅力的な性格に恵まれていました。1640年、マルグリットは「特別の恵みをいただき」、この恵みに霊感を受け、…

宣教する教会

17世紀は、French School of Spirituality(フランス派霊性神学)が宗教的進展が起こりました。この学派はカトリック改革に伴う刷新運動の一部です。この霊性神学の真髄には人間としてのイエス・キリストがあり、イエスの生活と宣教は、聖霊の存在を通して、キリスト教徒により受け継がれるとするものです。この霊性神学の大きな祝日は聖霊降臨、すなわち復活されたキリストの霊の力により教会が誕生した日です。キリスト教徒としての召し出しは宣教にあるとの考え方は、ノートルダム・ド・モンレアル協会の設立の動機やマルグリット・ブールジョワの手記にも明らかです。この時期のフランスの教会は、…

危険な世界、モントリオールを救った入植者たち

1653年9月マルグリット・ブールジョワはケベックに到着しました。彼女は「大募集団」あるいは「モントリオールを救った入植者」として知られるグループの一員でした。1642年にモントリオールを建設した人々の多くはモントリオールを離れたか既に死亡していました。その頃のニューフランスのフランス系の全人口は約700人と推定されます。セントローレンス川に沿い、1608年にケベック、1634年にトロワ・リヴィエール、そして1642年にヴィル・マリー(現在のモントリオール)が建設されました。アルゴンキンやアブナキ等の先住民はニューフランスと同盟を結びましたが、他の先住民特に勇猛なイロクワ連合は、…

モントリオールを救った入植者たち - 家族のために

マルグリット・ブールジョワは早くから、教育は家庭に始まると考えていました。カナダへの最初の旅のときでさえ、モントリオールに向かうマルグリットはケベックで幼女を預かりました。いずれは幼女がモントリオールで結婚し、家族を持つようにとの願いが託されたのです。マルグリットの到着時、モントリオールには学校を開くほどの人数の子供がいなかったため、マルグリットは入植地の小さな家を一軒一軒訪ね、女性に読み書きを教えました。マルグリット・ブールジョワおよび彼女と共にモントリオールにコングレガシオン・ド・ノートルダムを設立するため働く仲間たちにとり、女性を支援し、教育することは不可欠かつ重要な仕事でした。…

Une congrégation sans frontières

En partant seule pour le Canada en 1653, Marguerite semble renoncer à son rêve de former une communauté de femmes qui marcheraient sur les traces de Marie, la mère de Jésus, et des autres femmes disciples de l’Église primitive. Mais son directeur spirituel lui assure que ce que Dieu n’a pas…

モントリオールを救った入植者たち ― 境界を持たないコングレガシオン

1653年、マルグリット・ブールジョワが一人でカナダに出発したとき、マルグリットはイエスの母マリアや初代教会の女性の弟子にならう女子修道会を創立する夢を棄ててしまったかのようでした。しかし、マルグリットの霊的指導者はマルグリットに言いました。神は、マルグリットにフランスのトロワでお望みにならなかったことを、モントリオールで実現するよう望んでおられるのではないかと。それは事実でした。1658年から1659年、マルグリットは故郷フランスへ戻りました。それは困難な旅でしたが、マルグリットは、彼女と共同生活をしながら、入植者や原住民の子供たちを教育する意欲に燃えた4人の仲間と共に、…

モントリオールを救った入植者たち ― 生きていくための教育

マルグリット・ブールジョワは自分が新しい社会の建設を担っていることを承知していました。マルグリットは、当時の偉大な教育者であったピエール・フーリエの教育理念に精通しており、彼女もまたフーリエと同様、教育は社会の将来を決定する最も重要な要素であると考えていました。マルグリットおよびコングレガシオンの第一の教育目的はキリスト教の信仰と価値を伝えることにありました。マルグリットにとり、キリスト教の信仰と価値とは一言でいうならば、「心を尽くして神を愛し、隣人をも自分のように愛する」という掟であり、それに加え、単に隣人を愛するだけではなく、…

旧政権の終焉 ― 激動の時代

18世紀は平和への期待で開けましたが、平和は長続きしませんでした。1702年、ヨーロッパの王家間の野望により、スペイン継承戦争が勃発し、ヨーロッパ大陸の運命を危険にさらし、ニューフランスを再び争いに巻き込みました。1713年に締結されたユトレヒト条約は戦争を終結したものの、セントローレンス川沿いのフランス植民地の将来に大きな影を投げかけました。この条約により、フランスはアカディアとニューファンドランドをイギリスに割譲し、北部にあった幾つかの要塞もまたハドソン湾会社の要求に屈してイギリスの手に渡りました。これらの領土の喪失は、植民地とフランス本土間の連絡を困難にし、…

旧政権の終焉 ― フランス植民地帝国の苦闘に巻き込まれ

ニューフランスに到着して以来、ジャン・バティスト・ラ・クロワ・ド・シュヴリエール・ド・サン・ヴァリエ司教はアカディアのポール・ロワヤルにコングレガシオンを設立することを望んでいました。ユトレヒト条約によりアカディアがイギリス領となったとき、司教はケープブレトン島のルイブール(現ルイスバーグ)に目を向けました。多くの困難にもかかわらず、1727年、コングレガシオンの一人のシスターが、この新しいルイブール要塞に第一歩を踏み入れました。同年12月までには、彼女の学校の寄宿生は22人に増えました。1734年には、コングレガシオンの6人のシスターが通学生と寄宿生の面倒を見ていました。…

旧政権の終焉 ― 増大する人口のニーズに応える。試練に耐え、続く努力

18世紀初期、セントローレンス川流域のフランス系人口は急速に増加しました。その主な理由は移民の増加というよりむしろ、乳児死亡率が低かったことなどの自然現象によるものです。これは無論、植民地に多くの子供がいたことを意味し、従って、さらに多くの教師を必要としました。その需要を満たすため、コングレガシオンは大きくなりましたが、1747年、アンリ・マリー・デュブルーユ・ド・ポンブリアン司教はシスターの数を80人に限定しました。シスターの大部分はフランスからの入植者の子孫でしたが、主にラック・デ・ドゥ・…

不安と希望 ― 転換期

パリ条約の調印直後の数カ月間、フランス系の役人、軍人、指導者階級の家族がケベックを離れ、代わって、英国軍事政権が設立され、アメリカ植民地や英国から商人、土地投機家、入植者がケベックに殺到しました。

しかし、現在カナダと呼ばれている地の運命はまだ明らかではありませんでした。フランスは海軍を強化しつつあり、過去の敗北を覆すかのようでした。加えて、アメリカ植民地と英国の関係は悪化する一方でした。

英国は、ケベック州となった植民地のフランス系住民を懐柔するため、1774年、ケベック法を制定しました。これにより、殖民者の宗教(カトリック)の自由が保障され、…

不安と希望 ー コングレガシオンの再建

ルイブールの崩壊に加え、戦争は、ケベック地域のコングレガシオンに非常に大きな打撃を与え、その活動は途絶したかのようでした。ケベック市とシャトー・リッシェのコングレガシオンは、ケベック市包囲の際焼かれ、ポワント・トランブル・ド・ケベック(現在ヌーヴィルと改名)は軍隊に占領されました。しかし、1763年にパリ条約が調印される以前から、これらコングレガシオンの建物の回復作業は始まっていました。1761年、ポワント・トランブル・ド・ケベックの修道院は会に返還されました。オルレアン島のサント・ファミーユの工事も再開しました。シスターたちは、シャトー・リッシェの修道院には戻りませんでしたが、…

不安と希望―源泉に忠実に

1768年4月11日の夜、モントリオールの母院のシスターたちは火事で目を覚ましました。それは90の建物、2つの教会と一つの学校を焼きはらった大火災で、シスターたちは何も持たず命からがら逃げるのみでした。1683年の火災のときと同様、シスターたちは近くのオテル・デュー修道会に避難しました。状況は非常に悲惨なもので、修練者たちに自宅に帰る許可が出ましたが、彼女たちは居残り、たとえ大きな自己犠牲を払っても再建に参加することを望みました。再建には、サンスルピス会員、とくに同会総長のエチエンヌ・モンゴルフィエ師の援助がありました。

この時期、…

不安と希望 ― カトリックの信仰を守りながら

ロンドンの植民地担当省は、征服後、カナダに英国国教会を設立し、カナダ住民とその子孫を徐々にプロテスタントに改宗させる意図を明らかにしました。この目的を達成するための主な手段の一つは各町にプロテスタントの学校を設立することでした。1762年から1766年の間植民地の最高司令官であったジェームズ・マーレイ将軍と、総督としてマレー将軍の後任となったガイ・カールトン卿は、カナダ人に好意的でカトリック教会に寛容でした。しかし、全ての人が友好的であったというわけではありません。征服後カナダへ来た新移民の多くは、フランス人嫌いで、特にカトリック教会に対し根強い反感を持っていました。…