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新世紀のチャレンジ ― 新しい移民のチャレンジ

新世紀始めの数年、カナダは政情不安に揺れました。英国とアメリカとの緊張関係は依然として続き、1812年に米英戦争が勃発しました。かってのニューフランスの新移住民と古い住民の間の葛藤も続きました。1837年から1838年、「責任ある政府」をめぐっての争いにより、アッパー・カナダ(トロント)とローワー・カナダ(ケベック)で武装蜂起が起こり、独立への動き、あるいは米国との併合への闘争へとつながりました。1840年の連合法の通過はこれらの問題の解決とはなりませんでした。その例として、1849年の暴動損失賠償法案の調印後、英国系暴徒がモントリオールの議会の建物を焼き払ったことに見られます。…

新世紀のチャレンジ ― 国の教育規制のチャレンジ

政府による教育介入は、ヨーロッパおよび北アメリカの一部ではすでに事実であり、カナダでは1801年に始まりました。同年通過した法律は、教育省を設置することにより、国の支援による公立校システムを設立することを試みるものでした。この試みに続いて同様の法案が幾つか提出されましたが、いずれも大きな反対にあいました。その理由の一つは、国立校設立の狙いはロウアー・カナダ(現在のケベック)の住民を英語化し、プロテスタント化することにあるとのあまり根拠のない疑いのためです。1841年の新しい法律は国立校のネットワークを設立することを目的としています。このネットワークは総督が任命する一人の教育監査官と、…

新世紀のチャレンジ ― 人口増加のチャレンジ

1821年、モントリオール小教区はケベック市から分離し、独立教区となり、1840年、イニャス・ブルジェがモントリオール教区の二代目の司教となりました。1837から1838年のパピノーの反乱の失敗や増大する人口を前に、イニャス・ブルジェは非常に大きなチャレンジに直面しました。数十年の間、モントリオールの英語系移民は増加の一途を辿り、そのため仏語系人口は少数派となってしまいましたが、移民の大多数はアイルランド人であったため、カトリックは依然として多数派の宗教でした。ブルジェ司教は、長年にわたる司教職の間、宗教・教育・社会面での教区民のニーズを満たすことに苦闘した一方、その方針は、…

新世紀のチャレンジ ― 変りつつある時代に適応する寄宿学校

モントリオールの地元社会およびより大きな世界で起こりつつある変化は、モントリオールの寄宿学校の変遷に反映されます。仏語系の生徒は、古い封建領主的な家庭に加え、新しく登場しつつある知識人や政治家の家庭出身でした。新階級の人々の意見は必ずしも司教や司祭の意見とは一致しませんでした。1823年の英語系クラスの導入以前でさえ、英語系生徒の数は増えつつあり、その多くはカトリックではなく、モントリオールやその近隣地区のみならず米国からの生徒さえいました。この期間、ダユブ、ラノディエール、パピノー、ドリオン、デシャンボー等の名前を持つ仏語系マドモワゼルは、マギール、マコール、アレン、…

山に移転、そしてもとの場所に戻ったコングレガシオン

モントリオールとその近辺の経済発展に伴い、他の多くの古い組織と同様、コングレガシオンもまた、移転する必要に迫られました。1854年、コングレガシオンはモンクランドと知られていた山の上の建物を購入しました。モントリオールが英領カナダの首都であったとき、総督の公舎であった建物です。モントリオール旧市街の母院にあった寄宿学校はモンクランドの建物に移転しました。そのとき、ヴィラ・マリアと命名された学校は現在もなお存在しています。母院自体もモントリオール旧市街を離れる必要に迫られ、新しい母院が建設され、1880年、コングレガシオンは新しい母院に移転しました。この建物は長く続かず、1893年、…

女性のための画期的な出来事

当時、ヨーロッパや北米では、男性が高等教育を受ける機会は増えつつありましたが、女性に同様な教育機会を与えるには躊躇がありました。北米での女性のための最初のカトリック大学は、ノバスコシア州アンティゴニッシュにある聖フランシスコ・ザビエル大学の姉妹校であったマウント・セントバーナード・カレッジでした。同カレッジは、1883年にアンティゴニッシュでコングレガシオンが築いた土台から成長しました。聖フランシスコ・ザビエル大学総長のジョン・カメロン司教と彼の同僚の大きな援助のおかげで、1897年に四人の女性が文学士号を取得しました。

モントリオールでは、1857年に、…

北米に広がるコングレガシオン

1855年から1900年にかけて、コングレガシオンは90の新しいミッションを開き、そのうち44はケベック州外でのミッションでした。20世紀直前には、東はマドレーヌ諸島とプリンスエドワードアイランド、西は米国イリノイ州のカンカキーに至るまで、1157人のシスターたちがカナダと米国の学校で教職、学校運営、その他の業務に携わっていました。

シスターたちは通常、現地の司祭や司教の招きに応じて、時には仏語系人口が既に定着している場所にミッションを開きました。それは常にカトリックの家族のためのミッションでした。

海から海まで広がるカナダ

1867年、カナダの州の間にやっと、今までになく長続きのする立憲的関係が生まれました。この年、英領北米法により、ノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州、ケベック州、そしてオンタリオ州が統合され、カナダ連邦が誕生しました。詩篇から引用したこの国のモットーは、今なお生きています。「王が海から海まで……支配しますように。」(詩篇72:8)

1870年にマニトバ州とノースウェスト準州が、1871年にブリティッシュコロンビア州が、1873年にプリンスエドワードアイランド州がカナダ連邦に加入しました。1905年のサスカチュワン州とアルバータ州の加入により、…

卒業生と連絡を保つ

コングレガシオン初期の小さな世界では、シスターたちは簡単に学校の卒業生と連絡を保つことができました。シスターたちは単に非公式に会うだけではなく、年長の学生や女性たちと定期的に日曜毎に会合しました。その後数年にわたって、このグループは勝利の聖母修道会やウーヴル・デ・タベルナクル(祭壇奉仕会)のような組織を結成するに至りました。

19世紀の第1四半期には、コングレガシオンの同窓会グループがその母校に付属するようになりました。たとえば、ブルボネ(イリノイ州)、カンカキー(イリノイ州)、ニューヨーク、スタテン・アイランド、サンルイ・ド・ケント(ニューブランズウィック州)、オタワ、…

教師の教育

20世紀の前半、コングレガシオンは、既に教師でありながら、教師としての技能を一層向上し、更に高度の免状や学位を得ることを望む多くの若い修道女や一般人を積極的に後援しました。1916年にはモントリオール・カトリック教育委員会の一部融資を得て、土曜日ごとに一連の教育集会が母院で開かれました。翌年1917年、ラヴァル大学は、土曜講座よりなる三年制課程を認証し、学位課程への道が開かれました。300人近い教師がこの課程に登録し、1920年は70人の教師が二年でこの課程を修了し、免許状を受けました。1921年には、460人の教師がこの免許状を受け、…

ビジネス社会に備えて...そして家庭のための女性教育

1905年から1906年にかけて、ビジネス教育の必要性は急速に増加していたにもかかわらず、モントリオールには三つの商業学校しかありませんでした。働くことを望む若い女性の選択肢はほとんど工場に限られ、そこで女性たちは低賃金で酷使されました。このような状況を憂慮し、1907年、コングレガシオンはポワント・サンシャルルに最初の商業学校を開きました。母院の新しいカレッジのビジネス教育部門は、1909年に初めての入学生を受け入れ、それ以来、成長し続けました。教科は、簿記、商法、銀行取引、商用通信、ペン習字、商業地理学、速記、タイプライター、索引作業、活版印刷、複写とガリ版印刷、…

女性教育の振興

20世紀は、コングレガシオンにとりパリ・エクスポへの参加で始まりました。コングレガシオンのすべての学校で生徒は展示品作成に参加し、メダルと賞状を獲得しました。19世紀全体を通して、コングレガシオンは女子学生のためのカリキュラムを改善する努力を結集し、女性の進出が遅れている分野の教育のために男性の専門家を雇いました。20世紀には、英語系地域のシスターは高校教育に力を注ぐ一方、ケベック州では、1922年を始めとして、多くのコングレガシオンの学校で、「文学と科学」と題する4年プログラムが組まれました。このプログラムは、ラヴァル大学やモントリオール大学の認可をうけ、11年生(16歳前後)…

日出づる国へ向かって

1932年5月、コングレガシオンは画期的な決定を行いました。それは、日本の福島にミッションを開く招待を承諾したことです。その年の秋、聖フランシスコ・ザビエルが「私の心の喜び」と呼んだ人々の中に住み、働くため、五人のシスターが日本に向かいました。16世紀から17世紀にかけてのザビエルや他のカトリック宣教師の仕事は日本人キリスト教徒により密かに保存されてきました。彼らは、迫害の中で、司祭や秘蹟(洗礼を除いて)の欠如にもかかわらず、信仰を世代から世代へと伝えました。しかしながら、彼らは極めて少数でした。

モントリオールに到着したマルグリット・ブールジョワと同様、…

惨事、そして、復興のとき

20世紀の前半、世界は最悪な事態に見舞われました。二つの世界大戦のため何百万人という人々の命が失われ、二つの戦争の間は経済恐慌のため数百万人が貧困に陥りました。第二次大戦後は、大量破壊兵器が発明され、何十年もの間、欧米諸国と共産圏との間の冷戦という世界緊張が続きました。しかし、この苦しみの中にも、良い出来事がありました。英国からの独立の道を歩んでいたカナダは、第一次大戦後の1931年、実質的な独立を果たし、英連邦の一員となりました。他の朗報は、女性に議会での選挙権が与えられ始めたことです。しかし、ケベック州では女性の選挙権は1940年まで認められませんでした。戦争中、…

カナダの聖マルグリット

1700年1月13日、マルグリット・ブールジョワの葬儀に列席した神父の一人は次のように述べています。「もし聖人が、昔のように聖職者や一般人の声により決まるのなら、私たちは明日、カナダの聖マルグリットのミサを祝うことになるであろう」と。この日からほぼ三世紀が経過した頃、マルグリット列聖の可能性が見えてきました。1869年、ブルジェ神父はローマを訪問した際、その最初の手続きを行いました。1878年12月、教皇レオ十三世はマルグリットを「尊者」とする布告に調印しました。尊者は聖人になるための第一段階です。1950年11月12日、マルグリットは教皇ピオ十二世によりローマで列福され、…

ラテンアメリカとアフリカに向かう

かってコングレガシオンが根付き、成長した世界がますます宗教を離れる傾向を強めるにつれ、これら繁栄する西欧諸国とは全く異なった国々で教会が必要とされ、シスターたちはそれに応えることを求められました。1962年6月、五人のシスターが長期調査のため、クエルナバカ(メキシコ)の養成センターに出発しました。同年10月、彼女たちはテグシガルパ(ホンジュラス)に、コングレガシオン最初のラテンアメリカでの宣教支部を設立しました。テグシガルパに続き、グアテマラ(1964年)、チリ (1965年~1973年)、エルサルバドル(1988)でも宣教支部が設立されました。これらの国で、シスターたちは、…

第二バチカン公会議のチャレンジに応えて

「静かな革命」と知られるケベック近代化運動を推進する最初の政策の一つはケベック州の教育制度を見直す政府委員会を設立することでした。1963年から1966年にかけて、パロン報告と呼ばれた五巻に渡る教育報告が集成されました。この報告書の調査結果と提案に基づき、政府は教育制度を徹底的に改革し、増加しつつある生徒のニーズに対処するため、義務教育を中等教育(16歳)までに延長しました。その政策の一つは、従来のカレッジを廃止し、CEGEP(地域短期大学を意味するフランス語の頭字語)を設立することでした。こうして、政府は徐々に従来修道会が担っていた責任を引き継ぐようになりました。

急速な変化の時代

1960年代の半ばから終わりの時期は大きな社会不安のときであり、第二次世界大戦末に生まれた世代が成長し、社会での女性の公的役割が大きくなりつつあった時代でした。この時期はまた、モントリオール、カナダそして世界に関連し、コングレガシオンに多くの画期的希望がもたらされたときでもありました。1965年末に終わった第二バチカン公会議はカトリック教会に革新と新しい命への期待を約束しました。1967年、カナダは連邦成立100周年を迎え、それを記念しモントリオールで万国博(エキスポ)が開催されました。万国博は大成功に終わり、一躍、モントリオールを世界に紹介しました。1969年7月、世界は、…

結び

1653年、マルグリット・ブールジョワは、心には神への揺るぎない信頼を、手には必需品のみを包んだバルション(小さな包み)を持って、フランスからカナダに到着しました。マルグリットは、当時ではもっとも進んだ教育理論の知識に加え、この理論を10年以上実践した経験を持っていました。カナダでの約半世紀を通し、彼女は周りの人が何を求めているかを見抜く優れた洞察力を養い、それを満たす方法を見つけ、行動に移す意志と創造性を発揮しました。彼女は働く女性の共同体であるコングレガシオン・ド・ノートルダム・ド・モンレアルを創立し、必要ならニューフランスのどこにでも出かけ教育事業に専念しました。…

マルグリット・ブールジョワ

1658 - (スール・デュ・サンサクラマン)

1620年4月17日フランスのトロワに生まれる。1700年1月12日カナダのモントリオールで死去。モントリオールのコングレガシオン・ド・ノートルダム修道会(コングレガシオン・ド・ノートルダム・ド・モンレアル)の創立者。

 

1640年ヴィル・マリー(現在のモントリオール)のポール・ド・メゾンヌーヴ総督の姉ルイーズ・ド・ショムディの監督下にあったトロワのコングレガシオン・ド・ノートルダムの在俗会に加わる。1653年植民地で働く教師を求めていた同総督の招きを受け、カナダに渡る。1658年モントリオールで同総督から譲り受けた家畜小屋で学校を開く。同じ年、…

マリー・バルビエ

1693 - (スール・ド・ラソンプシオン)

1663年5月1日ヴィル・マリー(現在のモントリオール)で受洗、1739年5月19日同地で死去。1679年コングレガシオン・ド・ノートルダムの修練者となる。モントリオール生まれの最初のコングレガシオンの会員。1685年スール・アン・メイランドと共にオルレアン島のサント・ファミーユ小教区に学校を開く。1686年ド・サン・ヴァリエ司教の要請により、寄宿学校「ラ・プロヴィダンス・ド・ラ・サント・ファミーユ・ド・ケベック」の創立を手伝う。この学校はヴィル・マリーの「ラ・プロヴィダンス」と同様、女性たちに手仕事を教えた。1689年オルレアン島に戻り、1691年再びヴィル・マリーに戻る。…

マルグリット・ルモワンヌ・ド・サント・マリー

1698 - (スール・マルグリット・サンテスプリ)

1664年2月3日ヴィル・マリー(現在のモントリオール)で生まれ1746年2月21日同地で死去。ニュー・フランスの名士の家に生まれる。16才のときコングレガシオン・ド・ノートルダムに入会を求める。姉は当時既に会員になっていた。1682年に非公式の誓願を宣立。はじめはヴィル・マリーで教え、その後、山の宣教地で教える。24才のとき修道志願者の責任者となり(修練院長)、新しくコングレガシオン・ド・ノートルダムに入会した女性たちが修道生活の準備をする責任を任される。この仕事を10年間続けた後、コングレガシオン・ド・ノートルダムの修道院長に選出され、4期にわたって修道院長を務めた。スール・…

マリー・カトリーヌ・シャルリ・ サンタンジュ

1708 - (スール・サンタンジュ、1700年以降はマルグリット・ブールジョワの修道名を頂き、スール・デュ・サンサクラマン)

1666年5月3日にヴィル・マリーで生まれ1719 年同地で死去。13才のときコングレガシオン・ド・ノートルダムに入会。27才のとき、第二代修道院長マリー・バルビエの顧問に選出される。その5年後に修練長を任される。2回に亘って修道院長を務める。スール・サンタンジュの才能は任期中に頻繁に発揮された。賢明な女性、政治・宗教・財政上の困難を上手に対処する能力のある女性として知られる。2回目の任期中に死亡。

 

マルグリット・トロティエ

1722 - (スール・サン・ジョゼフ)

1678年4月21日バティスカンで生まれる。1744年10月6日オルレアン島近く、セントローレンス川をモントリオールに向かう船上で死去。マルグリット・トロティエは故郷の村にコングレガシオン・ド・ノートルダムが設けた仮設支部でコングレガシオンのシスターと出会い、姉のカトリーヌと共にコングレガシオンのモントリオールの寄宿学校に行く。その後二人は入会を求め、1694年に非公式の誓願を宣立。宣立後すぐにシャトー・リシェに派遣されそこで教える。1705年ヴィル・マリー(モントリオール)に戻り、会の預金担当者に任命される。修道院長に選出されるまで在任。1722年から1729年まで修道院長を務める。…

マリー・エリザベト・ギレ

1732 - (スール・ サント・バルブ)

1684年9月3日バティスカンで生まれ1739年10月23日モントリオールで死去。11人の子供を持つ家庭の第一子。1700年コングレガシオン・ド・ノートルダムに入会。1730年預金担当者になる。1732年から1739年まで修道院長を務め、在任中に亡くなった。

マルグリット・アミョ

1739 - (スール・ ド・ラ・プレザンタシオン)

1675年1月16日サン・タンヌ・ド・ボプレで生まれ1747年8月1日モントリオールで死去。1693年頃コングレガシオン・ド・ノートルダムに入会する前は、ケベックの、スール・マリー・バルビエをリーダーとする在俗修道会の会員だった。1698年6月25日モントリオールで誓願宣立。幾つかの仮設の支部で働いたと思われる。ケベック市の下町の支部院長を務める。1739年から1745年まで修道院長在任。オーストリア継承戦争の勃発と乏しい収穫のため、任期中は入植地にとって厳しい時期だった。

マリー・アン・ティビエルジュ

1745 - (スール・サント・ペラジ)

1690年5月15日モントリオールで生まれ1757年3月21日同地で死去。1714年(あるいはそれ以前)にコングレガシオン・ド・ノートルダムに入会。ケベック市の下町の支部で長い間働く。数年間修練長を務める。その後1745年に修道院長に選出される。1751年任期終了時に副修道院長に任命され、亡くなるまで同職を務めた。

マリー・マルグリット・ピオ・ド・ラングロワズリ

1751 - (スール・サン・イポリット)

1702年2月11日ヴァレンヌで生まれ1781年2月10日モントリオールで死去。両親は2人ともニューフランスのエリート階級出身である。1721年姉シャルロット・アンジェリックと共に修練院に入る。2期修道院長を務める。1期目は良い状況の中で始まった。入植地は平和と調和に包まれ、2年の間入植地で死亡した者はいなかった。コングレガシオン・ド・ノートルダムはフランスとカナダ両国の教会や政府から援助を受けることが出来た。しかしアメリカ大陸で英仏間の戦いが再燃し、すべてが変わった。その中でシスターマリー・マルグリットは2回目の任期(1763年~1766年)を務めた。…

マリー・アンジェリック・ルフェーブル・アンジェ

1757 - (スール・サン・シモン)

1710年10月25日モントリオールで生まれ1766年4月28日同地で死去。16才のときにコングレガシオン・ド・ノートルダムの寄宿学校に入る。1728年コングレガシオンに入会。モントリオールで使徒活動に従事し、また重要な職務を歴任する。1757年から1763年まで修練長と修道院長を務めた。任期中に7年戦争が起こる。イギリス軍の勝利により、英国政権やプロテスタント教会が、コングレガシオンにどのような影響を及ぼすかを憂慮したが、ジェフリー・アムハースト将軍の政治に前向きな態度で協力することを選ぶ。アムハースト将軍は現状維持を奨励する。修道院長の任期終了後、2年間、再び修練長を務める。…

マリー・ジョゼフ・モーグ・ガロ

1766 - (スール・ド・ラサンシオン)

1720年12月30日モントリオールで受洗。1785年8月16日同地で死去。1738年修練者となる。2年後誓願宣立。7年戦争とイギリスによるケベック征服の直後という大変厳しい状況のなかで1766年修道院長に選出される。1772年まで在任、任期中に会の資産の再編成を試みる。1768年4月11日にコングレガシオン・ド・ノートルダムの修道院と教会が火災のため焼失した。建物の再建のために土地や資産を売却し、また宣教活動の効率をはかった。農産物収穫のためにサン・ポール島(現在のイル・デ・スール)全土の購入を決定した。