モントリオール司教のモンセニョール・ラルティーグ師が、コングレガシオン・ド・ノートルダムの姉妹たちの帰還を要請

La Prairie, Canada East (Quebec), 30 September 1838.
モントリオール司教のモンセニョール・ラルティーグ師が、コングレガシオン・ド・ノートルダムの姉妹たちの帰還を要請

17世紀の終わりから、コングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターはラ・プレリー・ド・ラ・マドレーヌ(ラ・プレリー)でも活動するようになり、1705年には支部修道院が設立されました。ところが、1829年の法律の改正で当地に15の公設民営学校が開かれました。これらの学校には政府から補助が下りた上、住宅地の近くに建てられたので、親は娘を寄宿学校に入れる必要がなくなり、教育に対する経済的負担が減りました。そのためコングレガシオンの学校の生徒数は減り、1836年におそらく経済的理由から学校が閉鎖されました。しかし、コングレガシオンの学校の閉鎖の二年後、市民たちはシスターたちの復帰について陳情しました。その理由として、まず、学校法の期限が切れ、学校管理が国から市民の手に移ったこと。次に、学校数が急激に増えたため、不適格な教師が雇われたことなどが挙げられます。要請にすぐ応えられるだけのシスターの人数が不足していたため、市民の申請が受け入れられたのは1844年のことでした。同時に、コングレガシオン・ド・ノートルダムの総長は学校を設置する要請を多く受けましたが、教会関係者の上層部が支持する要請に応えることしかできませんでした。